【0.はじめに】
長いです。
目次
【1.出会い】
42.195km。
わたしにとってはとてつもなく長く、苦しい競技。
そんなわたしとマラソンの出会いは、大学3年生の冬。
その1月前、わたしは丹後大学駅伝に出場した。
そう、今放送大学で目指しているあの丹後駅伝。
幹部学年として長距離パートを率い、その集大成となる大会。
この大会で、競技からは一度足を洗おうと思っていた。
関西で長距離を志すなら、10000mの記録がなにより重要になる。
そのため、10000mを軸とした練習に取り組み、結果を出してきた。
その4倍のフルマラソンに挑戦しようと思ったのにも、特に意味はない。
強いていうなら引退前の思い出作り。
あわよくば2時間半を切れれば…と思い、スタート地点へ。
高校時代から年に1~2回40kmを越えるjogをしていたし、
なにより距離が長ければ長いほど得意という勘違いをしていたたため、
達成圏内だと思っていた。
最初は全く苦しくなかった。今思えば当たり前であるが(笑)
間違って集団引っ張ったり、カメラに向かってキメポーズしたり、
給水のコップ捨てるつもりが、中の水を沿道の少年にかけてしまったり(謝ったが少年は笑っていたのでセーフ)。
しかし25km以降、しっかり足が重くなり、
トイレ行った瞬間寒さに震えて無事死亡。
ということで、何もいい思い出が残らなかった(笑)
ちなみに、共に出場したキャプテンは、奈良の起伏をものともせず、
終始3'50"/km前後で淡々と刻み、初マラソンにして大崩れせず完走をしている。
性格の違いが如実に現れた結果となったのである。
その2か月後の泉州マラソンでも、
地元を入賞圏内で通過した後
無事撃沈し、やはり2時間半には届かず。
マラソンなんて嫌いだ。
【2.別れ】
就職活動を経て、なんやかんやで競技に復活したわたしは、
1500m~ハーフマラソンのすべての種目で自己記録を更新。
10000mでは80秒ほど、ハーフマラソンでも3分少々。
当然、フルマラソンも2時間半ぐらいは切れるだろうと望んだ防府読売マラソン。
先に結果から。
34'24"
1:09:04 34'40"
1:43:49 34'45"
2:21:34 37'45"
2:30:34 9'00"
35km通過してからも、サブ2時間半した後を妄想してにやけた。
ラスト3kmまでは確実に2時間半を切れるペースで、
ペース調整しつつ動きをコントロールしながら走れていた。
しかし、そこで1km4'10"を切れなくなった。
10秒×3km分が足りなかった。
ぴえん。
と今なら言うだろうが、当時はそんな便利な言葉はない。
「もういいや。」
ちなみに、同じくらいで40km通過した選手は普通ラスト8分かからないらしい(笑)
心底マラソン向いてないなと思ったし、
外野に何を言われてもそれ以上やってみようという気がおきなかった。
当然、10000mとハーフで獲得していた
「びわ湖毎日マラソン」のチケットは使わず回避。
【3.期限切れ】
ときは2年後。
この年でびわ湖毎日マラソンのビザが切れる。
マラソン練習など1度もしていなかったので、当然回避。
しかし、何を思ったのかこの大会の応援に。
その日は気温がアホほど高く、
2時間半を切った選手が82人、完走者130人という鬼回。
出場した同期や先輩は軒並み収容バスに乗っていた(笑)
ふいに後悔した。
あぁ、結局挑戦することなく終わったな、と。
別にエントリーしなかった選択が誤っていたとは思わない。
むしろ合理的だったとすら思う。
だってしんどいし、出てもどうせ収容バス行きだし。
ただ、そのとき感じた不合理な敗北感や後悔が、
その後しばらく尾を引くことになる。
【4.再会】
その半年後、大阪マラソンを走る機会に恵まれた。
大阪マラソンといえば、学生時代入金を忘れて出そびれた大会。
ろくに練習せずに出場した結果、後半90分くらいかかり、2時間44分16秒。
嫁に2時間差をつけるのが目標であったが、結果1時間59分10秒差で未達。なんだそりゃ(笑)
もうびわ湖なんて夢の夢だ。
まあ、わたしには縁のない舞台だったということよ。
と自分を納得させた。
さらに1年のときがたった。
本当になんとなく大阪ハーフにエントリー。
当時チームメイトのキャプテン・合宿係も出るという。
モチベーションを高めるために、仕方なく11月のにしのみやハーフと
12月の西脇へそマラソンに参加。それぞれ74分と71分。
大阪は目指せ70分30秒ぐらいかな。
その大阪ハーフで奇跡が起きた。69分50秒。びわ湖マラソン標準突破。
キャプテンに、可能な限り70分ペースで引くわと言っていたが、
なぜか自分がそのままゴールしてしまった。
そして、2年前の後悔を思い出す。
口では「エントリーするか否かじっくり考えるわ」と言っていたが、腹は決めていた。
【5.誓い】
そして始めたのが #びわ湖完走プロジェクト 。
あくまで完走が目的。
一応触れておくと、びわ湖マラソンは関門がシビア。
国内屈指のエリートランナー(フルマラソン2時間半相当)しか集まらないのに、
完走率が毎年7割程度という過酷な大会なので、まずはそこに入りたかった。
ただ、標準突破が直前だったため、与えられた日にちは40日。
40日で2時間半はさすがに無理と、珍しく現実を見た目標設定をした。
ちなみに、びわ湖に向けて練習を始めたのが
ちょうど1年前の1月28日。まだ1年なのね。
細かい内容が気になる方は一連のツイート見ていただければ。
とりあえず40日で228.2km走った。
Twitterで皆にいいねされることにより満たされる承認欲求が、モチベーションの原点であった(笑)
後、さっきTwitterを見てわかったが、なぜか禁酒14日を達成していたらしい。
13杯飲んでる主務を横目にノンアルコールビールで過ごすって、逆に頭悪くない?
そんな涙ぐましい努力の甲斐あり、無事完走。
40km関門を通過した歓びは忘れない。やればできるじゃん。
たった40日であるが、久しぶりに目標に向かってやり遂げる歓びを感じた。
そしていつか、ここに2時間半を切りに帰ると誓った。
【6.終わり】
ついにその日は来なかった。
びわ湖マラソンに関しては、今年は回避し、
来年丹後駅伝終了後、3か月かけてマラソン準備をする予定だった。
ある日、寝耳に水ともいうべきビッグニュースが入る。
――びわ湖毎日マラソンが、今年で終了。
そんなニュースを見てエントリーしないわけがない。
その日中に申込書を作成し、投函。
だが、考えることはみんな同じ。
例年300名前後のエントリーが、今年は倍増したそうな。
そして、このお知らせ。
#びわ湖完走プロジェクト から1年、
本日ポストの中には足切りを次ぐ封書が入っていた。
※No.100ってすごくない?
ぴえん。
それと同時に、一抹の清々しさもある。
昨年完走できてよかったな。
これで、わたしのマラソン人生は一区切り。
来年、大阪の地でサブ2.5を目指すのか、そんな気持ちなど端から湧かないのか。
【7.あとがき】
ここまで長文書いたのは、ただの自己満足である。
~Fin.~
【番外編.練習計画】
今後マラソンに出るか出ないかは分からんが、
そのときの参考になればと思い、練習計画を記しておく。
今年は一か八かでの攻めのレースを想定。
ターゲットタイムは2時間27~30分。
2ヶ月で何ができるかを考えたときに、
後半なんとか押し切る足を作るしかないなとなった。
ただ、マラソン練習の定番、30㎞走は不要と考えていた。
レースペースで走らないのは一種の賭けではあったが、
いつも30㎞以降がしんどいし、正直10000m32分台のスピードがあれば
3'30"には充分対応できると考えていたためである。
そのために、実際の走行時間(2時間30分)で走り続ける練習を何回積めるかにシフト。
準備として、年末にkm4で18㎞jog、28㎞jogを実施。
そして、年明けにキャプテンと宴会係の力を借り、38㎞jog(2時間30分ジャスト)を実施。
通勤ラン15㎞を挟みつつ、2月に38~40㎞jog(4'~3'50")を2本実施し、
本番に臨むつもりだった。
実際できてたらどうなっていたんだろうか。
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